思想の学校は現在休講中です。


これまでの活動

第4回 ~「自由」ということ~ 2012年8月17日(金)

第4回は「自由」ということについて考えました。仏教学者の鈴木大拙の「自由・空・只今」という文章を参照し、「自由」という言葉が本来は仏教用語であり、freedomやlibertyといった西洋の概念が表している「~からの解放」といった意味合いのものではなく、「松は松に成り、竹は竹に成る」といった自ずとそのものがそのものとして成ることを表す言葉であることを確認しました。そして、人間の場合は、どうしても単に母親から産まれ出ただけでは真にその人間に成ることはできずに、必ずや「社会化」という偽りの自分になる過程を通らざるを得ない存在であるために、一度偽りの自分が死んでもう一度「第二の誕生」を行なわなければ、そのような意味における「自由」は実現しないことが論じられました。
次に泉谷先生の未発表の『「わがまま」ということ』を参照し、そこで引用されているヘッセの「わがまま」についての論や、ロシアのピアノ教師ネイガウスの文章にも言及し、「自由とは勝手気ままの対極にあるもの」ということや、いかに人々が「心」というものが備えている秩序や矩(のり)というものを信頼できずにいるのかということが論じられました。また、受講者との質疑応答の中で、人々が「心」を信頼できないことの背景に、「性悪説」的な刷り込みが古くからおこなわれていることの問題点も指摘されました。


第3回  ~ポエジーの力~  2012年7月13日(金) 

第3回は、まず泉谷先生が2000年3月に中京大学評論誌『八事』第16号に寄稿した『「自由」、そして…』という随想をテキストに取り上げ、「詩人」とはいかなる存在であるかについて考察しました。アーサー・ミラーの戯曲『セールスマンの死』、谷川俊太郎の詩集『世間知ラズ』、田村隆一の詩「鳥語」「愉快な対話」からの引用に基づき、「詩人」がいかなる位置に生き、何を見、どのように振る舞う存在なのかを考えました。
次にホルヘ・ルイス・ボルヘスの『詩という仕事について』を参照し、「生は詩から成り立っています」という言葉や、詩というものを成立させているレトリックについて味わい、そして、「論証は何びとをも納得させないが、詩的にほのめかされた言葉の方が、人の想像力に働きかけ好意的に受け入れられやすい」という詩的言語の持つ不思議な力について論じられました。さらに、オクタビオ・パスの『弓と竪琴』を参照。「ポエジーと詩は同一ではない」「人間の世界は意味の世界であり、人間は意味の欠如を耐えることはできない」ということや、言葉と定義の問題を考えました。つまり、そこには「言葉で表現しえない現実があり、他方、言葉でしか表現しえない人間の現実がある」という複雑な対応・非対応が共存していると論じられます。また、隠喩というものについても話題が展開し、映画『イル・ポスティーノ』を例に挙げて、「人は隠喩に開かれることによって、ポエジーに目覚め、愛に目覚め、はじめて正しく世の中を見ることができるようになる」ということが語られました。


第2回  ~反抗と思想をめぐって~  2012年6月15日(金)

第2回はエーリッヒ・フロム最晩年の著作『反抗と自由』から、その第1章「心理的、道徳的問題としての反抗」をテクストとして参照しながら、「反抗」の根源的意義について考察しました。
旧約聖書にあるアダムとイヴの失楽園のエピソード、ギリシャ神話のプロメテウスの物語のいずれも「神への反抗」が描かれており、そこからフロムは「人間の歴史は反抗の行為によって始まり、人間の文明の進化も反抗によって始まった」という見解を導き出し、次に「反抗と服従」の問題の考察が成されます。また、いわゆる「良心」には〈権威主義的良心〉と〈ヒューマニズム的良心〉とがあって、前者はフロイトによって「超自我」と名付けられたものに相当するものだが、これは内在化されてはいるものの外部の権力に服従していることに変わりはなく、真に自律的な良心と呼びうるものは後者だけであると論じられます。
また、「どうして人間はこれほど服従したがるのか? どうして反抗がこれほどに難しいのか?」という問いが立てられ、「孤独」や「自由」というテーマに議論は発展していきます。そして、真の知性とは懐疑的精神を必ずや含んだ「反抗」の要素を備えているものであるという認識に到ります。テクストの最後に記されている「組織人間は反抗する能力を失ってしまったし、服従しているという事実に気付いてさえいない」というフロムの指摘は、まったく現代の人間の姿にそのまま符合する重要な指摘だと思われました。そして、テクストを離れて、幼児の「イヤイヤ期」や思春期・青年期の反抗の意義を考え、金子光晴の「反対」という詩も参照しながら、人間の自我の本質が「反抗」であり、人間の知性の本質もまた「反抗」であることを再認識しました。また、フロムが諸概念を丁寧に定義づけ分類を行って緻密に論を進めているのは、まさに第一回で触れた「現実陥入を排した命題を丁寧に積み上げて思想が形成される」ことの好例であると思われました。
参加者との対話においては、「ヒューマニズム的良心」は「心」由来であり、「権威主義的良心」は「頭」由来であることが再確認され、両者の声の聞き分けはどのようにしたら良いのか、「頭」の理性の望ましい用い方や役割とはいかなるものか等について、熱心に話し合いが行われました。

第1回 ~思想とは何か~  2012年5月25日(金) 

第1回の「思想の学校」は、講座のタイトルにちなんで「思想とは何か?」という問題がテーマとして取り上げられました。
「思想とは、自分で感じ考えることである」という一見平易な定義から出発しましたが、これは案外容易なものではなく、森有正が『経験と思想』において述べているように、「現実陥入」を排除した「命題」が構築されなければならないということや、日本語で思想を構築しようとする際に、日本語という言語が持っている「汝―汝」の関係性が避けがたく「命題」に「現実陥入」してきてしまうという問題があり、これについて自覚的でなければそのノイズを排除できない困難があることが論じられました。
次に、丸山真男の『日本の思想』を参照し、西洋の思想や科学が主客二分し物事を「対象化」するという見方を前提にしているのに対し、我が国においては「対象化」して認識すること自体を「傍観している」とか「けなしている」「悪口を言っている」と捉えてしまうような「主客未分な対象合一」を良しとする精神的伝統が根強く残っているという問題についても取り上げられました。
また、泉谷の『こころをひらく対話術』の中にある「自生タイプ」「鉢植えタイプ」「切り花タイプ」の「思想の三形態」についても、詳しい解説がなされ、そこから話は「対話の思想」というものに発展していきました。
参加者からは、「現実陥入」とはどんなことを指すのか?という質問や、日本語と外国語では背景の視点そのものがそれほど異なっているものだとは意識していなかった、等の意見が出され、熱のこもったやり取りが交わされました。